図書館情報学を学ぶ

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いろいろな幸福論

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

幸福論 (第1部) (岩波文庫)

二つの幸福論

雑誌『PHP』7月臨時増刊号にて、「わたしの幸福論」という特集が組まれています。河合隼雄から始まって、瀬戸内寂聴養老孟司柴門ふみなどの著名人が各自の「幸福論」を語っており、興味深かったので、購入してみました。
その中で、漫画家黒鉄ヒロシ氏が「幸福」についてこのように語っています。

「幸せ」という言葉は、もともと人間が勝手につくり出した単語に過ぎません。この言葉があるから、じゃあ幸せとは何ぞやと考え始めるわけです。もしこんな言葉がなければ、幸せなどと考え悩むことはありません。反対の「不幸せ」という考え方もなくなるでしょう。

なるほど、幸福というものが現実に存在しているから幸せについて考えるのではなく、幸福という言葉があるために存在するかどうかわからない確かな「幸せ」を求めるのだと。的を射ている考えかもしれませんね。
幸福論という題名の書籍は無数にあるのですが、私の読んだことのある書籍で、カール=ヒルティの著した『幸福論』には、このようなことが書かれています。

幸福はあらゆる学修や努力、すべての国家的および教会的施設の究極の拠り所である。ひとは勝手に「幸福説」を非難するがよい。しかし幸福こそは、人間の生活目標なのだ。人はどんなことをしてもぜひ幸福になりたいと思う。最も厳格なストア主義者でも、他の人々が幸福とみとめるものを断念することによって、彼の流儀で幸福を得ようとするのだし、極端に世をのがれようとするキリスト者でさえ、別の生活のうちに幸福を求めるに過ぎぬ。また厭世家も結局、かれのひそかな誇りのなかに幸福を感じ、仏教徒は無、すなわち無意識のうちに幸福を置くのである。幸福の追求のように万人共通のものは、ほかにないのである。

ヒルティ『幸福論』収録「幸福について」冒頭より)

ヒルティの場合は、幸福は人間が先天的に持ち得ている概念だと語っています。一見両者の主張は対立しているようですが、黒鉄氏の場合は「幸福」という言葉そのものに明確な意味があるのだという考え方に対する批判であって、ヒルティはより根本的な部分について述べているので、単純に問題意識の違いでしょう。ただ、この二つの主張を並べるみると、なかなか興味深く思います。

「幸福」とどのように向き合うべきか

黒鉄氏の言うように、「幸福」という言葉には明確な意味内容はありません。この世界に起こりうるどんな状況も、「幸福」な状態であると言うことのできる可能性があると思います。だから絶対固有の「幸福」を求めるという欲求は不毛かもしれません。
しかし、ヒルティの言うように、「幸福」というのは人間が先天的に求めるもので、それは人間のあらゆる行動、思想に重大な影響を与えている。だから幸福について考えることは、人間の作り出した社会・制度・思想を理解するのと同じことなのだと思います。
自分にとっての幸福とは何なのか、それを考えることは、自分の生きてきた社会や歴史的背景、今まで関わってきた人々(両親、兄弟、友人、教師、等々)を捉えることに繋がるのだと思います。
そして、他人にとっての幸福との相違点はどこにあるか、それは何故起こるのか、そのように考えていくことで、自分以外の人々を理解することができるようになります。
このように、「幸福」という言葉の意味内容を解き明かそうとするということは、人類社会の理解と、その中での自分の立ち位置について理解することに繋がります。それは非常に有意義なことだと思うのです。
このように、ある言葉の多元的な意味内容のありようを解釈していくことが、社会学では重要になると以前大学の講義にて聴いたことがあります。言葉というものは、それ自体はただの記号に過ぎません。ただ、少なくとも日本に限って言えば、私たちは言葉を幼少の頃から教えられ、言葉とともに生きていきました。私たちは、知らず知らずのうちに記号である「言葉」にたいして、多くの意味内容を与えているのです。だから言葉について考えることは決して不毛な行為ではないのだと、私は思います。そして、それが最も顕著なのが「幸福」という言葉なのだと思います。

読み返してみるとすごく当たり前なことについて書いてあるように思うなー。やっぱり書いている時はハイになっているんだな。