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マルテの手記

マルテの手記 (新潮文庫)

マルテの手記 (新潮文庫)

雑誌ダ・ヴィンチ今月号の「百年の誤読〜舶来編〜」に触発されてリルケの『マルテの手記』を購入。実はこの小説は一度岩波文庫版で読んだことがあるのだが、面白かったのでまた再読しようと思っている。
『マルテの手記』はドイツの詩人リルケがパリを訪れた時の経験を元に書いた小説である。小説というよりも、散文としか言いようの無い独特な作品だ。『マルテの手記』はリルケの分身である詩人マルテの手記という設定になっており、内容はパリでの体験だけでなく、マルテの幼少期の思い出などにも触れている。しかしそれが単なる滞在記や回想録とならないのは、やはりリルケの詩人としての才能ゆえだろう。その独自性は、ぜひ本を買うか借りるかなどして直に体感して欲しいのだが、とりあえずさわりだけ紹介すると、まず冒頭は次のように始まる。

人々は生きるためにこの都会へ集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ。

このような文章から始まって、マルテはパリの陰鬱な様子を描写していく、とりわけ特異なのは次の部分である。

僕は顔というものがいったいどのくらいあるかなど、意識して考えたことはなかった。大勢の人々がいるが、人間の顔はしかしいっそうそれよりも多いのだ。一人の人間は必ずいくつかの顔を持っている。長い間一つの顔を持ち続けている人もある。顔はいつのまにか使い古されて、汚くなり、皺だらけになってしまう。旅行にはめて出た手袋のように、たるんでしまう。それはつつましい、貧しい人々だ。彼らはいつまでも顔を変えない。垢を落とすことすらしない。彼らが自分はこれで結構だと言っているのだから、誰もそうでないとほかから照明してみせることはできぬ。しかし彼らだって、やはり幾つかの顔を持つとすれば、いわば余分になった顔をどう処分するのだろう。彼らはその顔をただしまっておくのである。おそらく子供にそれを与えるつもりかも知れぬ。また、あるいは彼らの飼い犬がその顔をもって道ばたを歩いていることさえあるようだ。「まさか?」と君はいうのか。顔はやはり顔なのだ。
それと反対に、不気味なほど早く、一つ一つ、顔をつけたり、はずしたりする人々がある。自分はいつまでも顔のかけがえがあると思っているらしい。しかし四十歳になるかならぬで、顔はもうこれが最後の一つになってしまう。むろん、悲劇である。彼らは顔を大切にすることを知らなかったものだから、最後のたった一つの顔も一週間とたたぬまにぼろぼろにしてしまう。穴ができ、ところどころ紙のように薄くはげ、やがて次第に地膚が出てくる。もはや、それは顔でもなんでもないのだ。そんな顔をつけて、世の中を彼らは仕方なくさまよい歩いている。

なんともシュールな描写である。しかし、この独特な顔の描写は、労働者の疲れや金持ちや貴族の虚ろな生活を的確に表現しているように思える。
他にも、マルテが都会の人々の死に方が画一的であり、「大量生産された死」を与えられているに過ぎないと批判したうえでこのような文章を書いている。

今はもう誰一人知るべもない故郷のことを思い出すと、僕は昔はそうでなかったと思うのだ。昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(いや、ほのかに感じていただけかも知れぬ。)子供には小さな子供の死、大人には大きな大人の死。婦人たちはお腹の中にそれを持っていたし、男たちは隆起した胸の中にそれを入れていた。とにかく「死」をみんなが持っていたのだ。それが彼らに不思議な威厳と静かな誇りを与えていた。

「生きることは死ぬことの一部だ」というような言葉はあるが、誰もが「死」を生まれる前から自身の体に宿しているという主張は他に見られない。たしかに人生というのはいつどのような時にも死ぬ可能性を宿しているのだが、マルテは「可能性」ではなくあくまで「死」、つまりは「死ぬ」ということの観念が常に人の自我の中にあるのではないかということを主張しているのだと私は思う。
『マルテの手記』はこのような文章がずっと続く。物語という枠が全く無いのでかなり読みにくい作品だが、マルテの幻想的な表現を用いた「死」や「都会の人々」に関する主張は実に興味深い。他にも素晴らしい文章は山ほどあるのだが、それらの紹介は後日改めて行いたいと思う。

追記
松岡正剛の千夜千冊(http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya.html)にも『マルテの手記』の書評が載っているので是非ご一読を。