図書館情報学を学ぶ

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人間の思考

『小説の自由』がそろそろ読み終わりそうなので、大学図書館から借りたばかりの『認知心理学入門 その基礎理論と応用』を読み始めている。最近教育心理学の講義でパブロフの犬についての話が非常に興味深かく感じたのが直接のきっかけだが、前々から認知心理学には興味を持っていた。というのも、高校時代に担任の教師に「今フロイトの『夢判断』を読んでいます」と言ったら、「フロイトの心理学はもう時代遅れだから止めなさい。もし心理学を勉強したいなら、認知心理学を学びなさい」とアドバイスされたことがあったからだ。
今のところ、3分の1まで読み進めたのだが、非常に興味深い点がいくつかあった。特に興味がそそられたのは、第2部第3章の「意識」についての記述にあった、以下の部分である。


近年,意識に関しては,二つの特にポピュラーな話題がある。その二つの話題とは,高次の心的過程と潜在的知覚である。
まず,高次の心的過程に関して,ニスベットとウィルソン(Nisbett & Wilson,1977)は,われわれ人間は,自分たちの思考過程について,直接的なアクセスはしにくい,と述べている。われわれは,自分たちの思考過程の所産(例えば,「お母さんの旧姓は何ですか?」といった質問に対して答えること)については十分,意識的であり得るのだが,その所産を創り出したプロセス(例えば,「その答えが,どのようにして出てきたのか?」)については,意識していないのである。われわれは,高次の思考過程を通常,意識しているのかどうかについては,議論の余地があるところである。
*1
この高次の思考過程を意識するということが、私には保坂和志が『小説の自由』において定義していた「散文性」ないし「小説に対する姿勢」と同義のものであると思っている。
保坂和志は、『小説の自由』の最終章「散文性の極致」において、「小説とはそれらの問い、ないし、問い以前の形のない何かを持ちながら、思考の手順を動員することによって思考を推し進めようとする散文なのではないか。」と主張している。また、ウル
フやジョイスの著作、そしてドフトエフスキーの「魂のリアリズム」から見るとおり、高次の思考過程(文学用語では「意識の流れ」という)が20世紀文学の主要テーマとなっており、上記の小説観が保坂和志だけのものでないことを示している。
ゆえに上記の『認知心理学入門』引用部にあるニスベットとウィスソンの主張が正しければ、小説はその思考過程について(間接的にだが)アクセスする数少ないツールとなり得るのではないだろうか。
ドフトエフスキーの『罪と罰』を読むと、まず最も印象的なのが、主人公ラスコーリニコフの、内的独白から表現されるきわめて一貫性の無い思考と感情である。貧しい生活や犯罪によって神経が衰弱していたせいもあるかもしれないが、私自身の思考を言動その他の感情表現から逆算して類推してみると、彼の思考過程が極めて共感を呼ぶものであるとわかる(あくまでこれは主観だが)。そしてまた、いかに人は他人に対して統一した思考・感情を期待しがちであるのかを気づかせてくれる。認知心理学でも「注意」についての解説で述べられているが、人の意識とはもともと線形的なものでなく、幾つもの感情・思考が並行してそれぞれが強まったり弱まったりしてできるものなのかもしれない。このように、小説には思考過程にアクセスするヒントが多く存在している。

まだまだ気づかせてくれることはこの2冊からは沢山あったのだが、文章が長くなってしまったので、今回はここまでにしようと思う。

*1: (岡崎春雄,『認知心理学入門 その基礎理論と応用』,初版,金子書房,1995,p47-48.(ISBN:4760830170)